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お箏の歴史History of Koto

お箏の歴史について、簡単に見ていきましょう。

古代の琴Aincient time

お箏の歴史はとても古く、古代からすでに使われていました。古代のコトは、現代の「箏(こと)」と違って、絃の数が5,6本で、また膝の上に置いて演奏するものでした。なので、ここでは現代の箏と区別するために、古代の方は「コト」と表そうと思います。

古代では、おコトは単なる楽器ではなく、お祭りや神様にお祈りする時に使ったりする、大切な道具と考えられていました。      
そのことが分かる例として、例えばコトを弾いているハニワがあります。群馬県や神奈川県など日本各地で、コトを弾くハニワが見つかっています。それらのハニワは、頭に飾りをつけたり、首輪をつけたりといい身なりをしていて、神官など身分の高い人がコトを弾いていたと考えられます。(下記URLから、埴輪の写真を見られます。)

     
また他の例として、日本の神話である『古事記』にもコトが登場しています。『古事記』の中に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が妻を背負って逃げる場面があるのですが、その逃げるときに持って行ったのが刀と弓と「コト」でした。そして、逃げる最中にコトが木にぶつかって大きな音を立ててしまい、逃げているのがばれてしまったと書いてあります。このことから、古代の人にとっては、コトは刀や弓と並ぶくらい大切なものと思われていたことが分かります。       

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中国から箏の伝来Introduction from China

楊貴妃の似顔絵

奈良時代になると、現代のお箏の原型となった楽器が中国(当時は「唐(とう)」)から伝わりました。13本の絃があり、現代のお箏とほとんど形は変わりません。ただ、当時のお箏は雅楽(ががく)の中で使われる楽器という位置づけでした。つまり、今でいうとオーケストラの中で使われる楽器という位置づけで、箏だけで弾くための曲は余りありませんでした。

 
  • 雅楽の中の箏
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    雅楽からの独立Becoming Indipendence from the Court Music

    16世紀の終わりごろ(室町時代)になると、お寺でお経に合わせて「越天楽(えてんらく)」という雅楽曲を伴奏に使うことが増えました。(「越天楽」)は大衆にもよく知られた有名な曲で、お寺の教えを普及するのに使いやすかったと考えられます。)その「越天楽」の伴奏を、箏だけで行うことも増えてきました。そのうち、和歌数首に箏による伴奏を付けて歌うものが作曲されるようになりました。これが「筑紫筝曲(つくしそうきょく)」の原型です。この筑紫筝曲の成立以降、箏はそれまで雅楽の一構成員にすぎなかったのに対して、歌の伴奏を箏だけで弾く曲が作られるようになっていきました。

    筑紫筝曲Tsukushi sokyoku

    室町、安土桃山時代に誕生した「筑紫筝曲」ですが、なぜ「筑紫」(=九州)というのでしょうか。諸説ありますが、宮中に仕えていた大納言が九州に左遷され、その間に前述のような箏伴奏の歌謡曲を作り僧に広めたのが始まりという説があります。その後、九州にいた僧の賢順(けんじゅん)が筑紫筝曲を確立し、佐賀藩が江戸時代を通して筑紫筝曲の伝承に力を入れたため、筑紫筝曲は武士による格式の高い筝曲として九州で発展することになりました。(のちに、賢順の弟子である法然から、八橋検校が筑紫筝曲を学び、現代筝曲の基礎を築いていきました。)

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    平調子の発明The Invention of the Tuning

    江戸時代前期には、八橋検校(やつはしけんぎょう)という人が、筑紫箏を大きく改良して、現代の筝曲の基礎をつくりました。なかでも、「平調子(ひらちょうし)」を作ったことは大きな功績でした。調子とは、お箏の音階のことで、「平(ひら)」とは「普通の」という意味です。この平調子は、「さくらさくら」など日本らしい雰囲気の曲が弾ける、もっとも基本的な音階です。

    その後、八橋検校の作った基礎を元に、現代の2大流派である山田流と生田流ができていきます。

         

    八橋検校Yatsuhashi Kengyo(1614-1685)

         

    八橋検校の「検校」とは、名前ではなく、位の事です。盲人(目の見えない人)の中で一番偉い位の事を「検校」というため、簡単に言うと「八橋検校」は「八橋先生」のような意味です。

    八橋検校は「六段の調」など、今もお正月のCMで流れるような有名な曲を作曲しました。その八橋検校が亡くなったとされる1685年は、洋楽の父と言われるバッハが生まれた年でもあります。このことから、日本では西洋と同じくらいの時期から現代音楽の基礎が出来上がっていたことが伺えます。

     
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    新日本音楽運動The New Approach to Japanese Music

    明治時代になると、西洋の音楽が日本にたくさん入ってきて、日本の伝統的な音楽からは人々の関心が薄れていきました。そこで、洋楽の要素も取り入れた新しい日本音楽を数多く作曲・演奏した人物が宮城道雄(みやぎみちお)でした。宮城道雄は、いままでの日本音楽にない流れるようなメロディを作曲したり、箏の多重奏曲、オーケストラとの合奏、演奏技法の拡大など、数多くの功績を残しました。宮城道雄らの活躍により、日本音楽は滅亡の危機を免れたと言っても過言ではありません。

    宮城道雄Miyagi Michio(1894-1956)

    宮城道雄は、8歳で失明し、筝曲の道に入りました。家庭の事情から、11歳で生計をたてるために箏を教え始めます。その後、上京をして自分の作曲した作品を次々と発表し、その天才的な演奏と魅力的な曲調により、宮城の名声は次第に高まっていきます。そして、フランス人ヴァイオリニストと「春の海」を共演したことにより、宮城は世界的にも有名な音楽家になります。生涯にわたって350以上の作品を作り、新しい日本音楽の基礎を築いた人物でした。

  • 「宮城道雄の世界」http://www.miyagikai.gr.jp/
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    現代Comtemporary History

    現代では、洋楽系の作曲者が日本の楽器のための曲を作るなど、「現代邦楽」と呼ばれる新しい曲がたくさん作曲されています。ポップスやアニメソングなど、なじみやすい曲が邦楽用にアレンジされたりもしています。また、箏や尺八をクラブ活動でやっている学校もあれば、東京芸術大学のように邦楽を学べる大学もあります。

    これから先も、魅力的な日本音楽と日本の楽器を、より多くの人に知ってほしいと思います。

    参考資料・『生田流の筝曲』安藤正輝著、『箏と筝曲を知る辞典』宮崎まゆみ著

     
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